「文藝春秋」8月号の特選記事を公開します。文/中村計(ノンフィクションライター) ◆ ◆ ◆ 単なる緊張とは、明らかに種類が違った。 「全く手が動かなかった」 プロゴルファーの尾崎将司は「魔の時」をそう思い起こす。 1988年、東京ゴルフ倶楽部で開催された日本オープンゴルフでのこと。これを決めれば優勝という、「ウイニングパット」だった。 ピンまで、残り約70センチ。小学生でも決められそうな距離だ。ところが尾崎は、構えるたびに顔をしかめ、手首を振った。そうして二度、仕切り直した末に、三度目で、ようやくパターを動かし、ボールを沈めることができた。 それくらい痺れる場面だった――。そう精神面だけで片づけられがちだが、真相は、もっと深刻だった。 「マスターズから続いていた症状だった。これを入れれば優勝、日本オープン、東京ゴルフ倶楽部、そういうのも重なって、普段の気持ちから離れていってしまったのかな」 痺れる状況は、きっかけに過ぎない。本質的な問題は、それより以前から体内に潜んでいた。 前年の87年、尾崎は8年振りにマスターズに出場し、オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブの「鏡」と呼ばれる高速グリーンを味わった。 「速過ぎてね。自分の感覚で、自分の打ちたい距離が出ない。あれから、わからなくなってしまった」 何も考えず当たり前にできていたことが突然、できなくなる。スポーツ界において、そうした事例は枚挙にいとまがない。 ゴルフなら尾崎のように外すはずのないショートパットが打てなくなる。野球におけるピッチャーならまったくストライクが入らなくなる。それどころか、バックネットにボールをぶつけるなどとんでもない暴投をしてしまう。テニスならサーブのトスを上げられなくなる。 いずれも特徴的なのは、実に簡単な動作であるということ。そして、何万回、何十万回と繰り返されてきた動作であるということだ。 「パットの名手」と呼ばれ、プロ通算9勝を挙げたゴルファーの佐藤信人も、ある日、突然パターを握る手が動かなくなってしまった。 「なんか、気持ち悪くなってしまって。7メートルも8メートルもあるようなパットならいいんです。どうせ入らないだろうと思えるから。30センチとか、どんな打ち方をしても入りそうな距離ほど、構えた途端、体が固まっちゃうんです」 わずか30センチの距離に戦慄する。だから、恐ろしいのだ。 イップス――。 こうした症状をそんな風に呼ぶようになったのは、1930年代、ゴルフ界が最初だったと言われている。病名ではなく、あくまで症状を指す言葉だ。語源は子犬のうめき声を意味する「yips」だという。体が硬直し思わずうめき声が漏れる、そんなイメージからきているようだ。 イチローと宮里の告白 つい最近まで、ごく狭い範囲でしか語られてこなかったイップスが近年、急速に市民権を獲得しつつある。たとえば芸人が、緊張してうまく話せなくなることを「イップス」と表現し、それで笑いを取ろうとする。今までにはなかった現象だ。 思い当たるのは、2人のスーパースターの告白だ。2016年3月に放送された報道番組で、まだ現役だったイチローが、高校時代にイップスになったことがあると明かし、「センスによって克服した」とさらりと語った。その翌年には、今度はプロゴルファーの宮里藍が引退会見で、パターイップスが自身の幕引きを早めたと告白した。 イチローと宮里が発信したことの意味は重い。 イップスは、その特異性から、ときに「奇病」のように語られ、「不治の病」だと言われることさえあった。しかし今、少しずつだが、その謎が解明されつつある。その先頭に立っているのは脳神経内科という医療分野だ。大阪大学の脳神経内科医、望月秀樹が話す。 「みなさん脳外科や精神科は知っていても、脳神経内科を知らないんですよね。要は『脳の内科』です。頭痛やめまいを内科的に治療したりします。脳卒中、認知症なども診ます。脳のジェネラリストなんですよ」 その望月らは論文「スポーツにおける職業関連ジストニア(イップス)」の中で、イップス症状に悩む選手の脳のメカニズムは「職業性ジストニア」を患っている人のそれと同様である可能性を指摘している。つまり、イップスも脳機能障害の一種ではないかと投げかけているのだ。 ジストニアとは、異常な緊張状態を意味する言葉だ。ちなみに、単にジストニアと呼ばれる疾患は、厳密には「全身性ジストニア」を指す。日常的に腕や首が引きつったように曲がってしまう病気だ。一方、職業性ジストニアは、特定の動作をしようとしたときにだけ小さな部位に症状が出る。ゆえに局所性ジストニアというタイプの一種でもある。
本文:7,453文字
写真:3枚
中村 計/文藝春秋 2021年8月号
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August 27, 2021 at 04:00AM
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